「ライフワーク」の上手い日本語訳を考えたい。
作品が生活に直結すること/生活が作品に直結すること の是非は人それぞれで、
全く切り離して考える人、改まった気持ちで答える人、一切の境界を引いていない人、それぞれは良し悪しでは区別されない。
自分はと言えば、リアリティに固執する為に実生活から丸パクしたりもするが、
登場人物=自分 ではない。誰のことも他人だと思って書いている。
共感できるところも出来ないところもある。
むしろ共感出来ない方が強いのでは。
身体感の有無は、実生活の直結には関係ないと思う。
ただ、他人を書いているとはいえ、いい加減なことは書きたくないから物体の実在感は欠かさない。
物体としての人間の体積とか、脈拍とか、まばたきとか、続かない会話とか。
小説で沈黙を書くのは相当難しい。
私がいい沈黙を描いた小説を知らないだけかもしれない。いい例を知らない。
会話が途切れる間や居心地をうまいこと活字に変換できないかと考えているけれども。
楽しかった会話を思い出そうとしても全然思い返せなくてただ楽しかったっていう感想だけが残っていて、思い出せないけど楽しくなる みたいな。
語れる訳ないんですよ。
日を追うごとに小説にも絵にも、自分の作品にも他人の作品にも、製品にも、生物にも疑いが増してきて、
でもあんまり疑いをあらわにすると黄色い救急車に運ばれて鉄格子の付いた病院に閉じ込められてしまうそうですよ。
離人症とかいうらしいですよ。
1年間精神病理についての講義を受講してみたのですが、まだよくわかんない。
「『異邦人』のムルソーは離人症では?」という知恵袋の記事を見てから特に離人症について考えることが多い。
でもねえ病気とか関係ないですよ、異常なのは法廷の連中だと思いますよ。
病気なんてカテゴライズに過ぎませんからね。
元気だったのに定期健診に行ったら突然レッテル貼られるんですよ。
「早期発見」
病院に行くから病気になるんです。
健康になることを考える・患者やまわりの人の苦悩を考える・病理のメカニズムを考えるのはほかの誰かがきっと考えてくれるので私はフォローしません。
制作というのは個人プレーを通り越して孤独の局地であり、なおかつ、全人類の連携プレーなのだろう。
誰も言及しなかったところを言及していく。の、繰り返しで、歴史というか時間というか文脈というか秘伝のタレが継ぎ足し継ぎ足し紡がれてきたのではないか。
だから今まで描かれなかったものを書こう。
そうすれば誰かが続きを書いてくれる。
続いていく。
2013年4月1日で「これは物語ではない」というライフワークが3年目に突入します。
大学入学とともに書き始めたような作品で、色々な理由が考えられますが「ライフワーク」と呼んでふさわしい作品で、
はーなんかもう30分ぐらいかけてずらずら下書きもなく打ってると言う事ねえな。
PCや携帯から文字を書く時、どうしても「打つ」という感覚が強い。
「書いて」いない。
ほら話がズレる。でもこのズレに些細過ぎる真実が輝いていると信じている。
ポタージュといいポタージュといい、とにかくいい加減に、けれども「真実」であるように、というのがとにかくの指針で、
あんまり深刻憂鬱にならないように(それはきっと、もっと適任の作者がいるだろうからね)
適度なクールとジョークを忘れないように、
笑い:もどかしさ悲しさ怒り:無我の境地=1:1:8ぐらいで。
ギャハハハハやクスクスクスでないけど、「たのしい」ものであるように。
そうですねー
真摯に、しかし深刻にはならないように、クールさと遊び心を忘れないように。
なにより自分が求めるものを書かないと、誰かに求められる程のものは作れない。
私は他人のニーズに合わせて制作するデザイナーには恐らく成れないから。
こころやさしい孤独をたのしみます。
どうぞ4649お願いします。