“@mtn_river
美術に限らず芸術、世界には積み重ねてきた歴史・文脈がある。現代美術はその文脈に沿った作品を作ることが大前提で、そうでなければ評価されない。でも自分がその文脈の続きを書けるというのはとても楽しいことだと思う。(後略)
2013年2月1日 - 9:47”
美術史のなかではもうアートは出尽くされていて、全くオリジナルの発想などもう見付からない。だから今まで先人がやってきたことを、乗り越え、翻案し、続きを書いていくのが「現代美術」(らしい)。これは「美術の文脈」とよく言われる。
(よく言われるのだが、発祥がどこか・誰かの専売特許の用語なのか、よく分かっていない、ごめんなさい。もっと詳しく分かりやすい記事を見つけました→
現代美術と文脈 ほかにも「美術の文脈」でぐぐってみて下さい)
自分の言葉など存在しなくて、全ては二次創作物で、オリジナルなんてどこにも無い。今喋っている言葉も、何かで読んだりした借り物の寄せ集めで、独自の思考なんて存在しない。あるのは独自の知識ではなく、集めた知識の総体の並べ方の違いだけだ。
精神が純粋に独立しているなんて違う。他者が私を作っている。その感覚にすごく近いものを語っているし、今まさに私を作るひとつとなっているだろうものが、ル・クレジオの『物質的恍惚』。(2013年2月3日現在読み途中)
身体と精神、自己と他人、自分と世界、現実と幻想。とかいう二元論を溶かしていく。
そして芸術は社会の=大勢の他人の=共同体の要請で作られる。芸術は世界の文脈の延長にある。
とか、丁度自分が言いたいことにとても近いところを『物質的恍惚』はかすめていった。(ただ、私がそういった考えを強く考えているから、似ている考えが全てソレに見えるという補正はかかっているだろう。)
これを手に取った経緯はとても単純。私はル・クレジオという人も著書も知らなかった。
11月に滅茶苦茶しつこくブログに書いていたPeople In The Boxというバンドのアルバム『Ave Materia』に『物質的胎児』という曲があるから。(
歌詞)
このバンドの作詞&ボーカル&ギターの人は綿密な意図・元ネタ・パロディを敷くのが好きっぽいから、何かあるかも知れないと思って借りた。(ブラフ・ミスリードを敷くのもお好きと思われるが)
同アルバム収録曲に『
ダンス、ダンス、ダンス』というのがある。どう考えても村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を彷彿とさせる。『ダンス・ダンス・ダンス』も、『ダンス、ダンス、ダンス』を聴いたから読んだ。(もうちょっと詳しく言えば、Peopleのライブ(12/13渋谷QUATRO)に行く時に買って読んだ)
他の人の言葉が形を変えながられんめんと繋がっていくのを考える。
歌詞のワンフレーズ、小説のタイトル、なんていうのは特別な言葉のように思う。物語のある言い回しだけが頭の中に引っ掛かることがある。時々思い出す。
文字の一節だけでなく、思想や感情も引き継がれていく。「影響を受けていく」。
さまざまな点がシナプスのように繋がっていく。れんめんと引き継がれてきた世界の文脈が繋がった感じがする。
個人の持つ知識の差は、知識の個別のオリジナリティではなく、集めた知識を並べる方法の差である。同じ本を読んだふたりの人間がいたとしても、それまで読んだもの・聞いたもの・見たもの・出会ったものが違うから、同じ知識にはならない。
知識の総体はその組み合わせ方による。だから、この世に自分とまったく同じ知識を持っている人間はいない。
「自分の文脈」と言ってもいいかもしれない。
それが公に発表された作品に現れたら、作品は、世界の文脈のつづきのひとつに含まれるということだ。
自分の作品(特に小説)を振り返れば、文脈の意図や引用元はかなり明瞭だと思う。何に影響を受けたか、PC版「これは物語ではない」のサイトにはなるべくクレジットを載せるようにしている。勿論網羅は出来ないから、なるべくの範疇で。
自分が先人の文脈を引き継げることが、今すごくうれしい。
文脈に沿って書くなんて不自由だ・アートは自由であるべきだ、と思われるだろうが、ひとりよがりな作品は今も昔も基本的には受け入れられない。
(「アウトサイダー・アート」という、文脈に関係ない芸術活動もあるけれど、アウトサイダー・アートの条件が「芸術の専門教育を受けていない人による芸術活動」なので、自分はすでに追放されているんですよ)
読書やら何やらの生活のなかで先人の言葉をつなぐ営みはとてもたのしい。幸福だ。知識欲ってこういうことなのではないか。
そして、自分の作品も、読者のシナプスに繋ぎとめられたら、これ以上の幸せはない。先人らに加わること、誰かの知識のなかに繋いでもらえたら、それが作品として一番の幸福だと思う。
( ) =文脈からちょっと外れること の多さよ。